toshimichanの日記

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なんちゃって

終わらせるのには、もう既に遅過ぎる年月を俺達は過ごしてしまっていた。

いつもとは違う、居心地の悪い違和感が漂う君の隣に、
いつもの様に当たり前に胡座をかいて座り、この場の雰囲気に合った
思い付く限りの適切な口火が切れる言葉を探していた。

重苦しくのし掛かる僅かばかりの時間でたちまち疲弊感に襲われ考えに考えた挙げ句に、


「ありがとう。」
陳腐で在り来たりな、それでいて多分、今の気持ちを素直に胸に治められる言葉が、不意に口先から零れ落ちてしまった。

なんだ、こんなしっくりとした当たり前の気持ちを表す言葉があったなんて、どうして直ぐに思い付かなかったのかと、
下卑た言い訳ばかりを思い浮かべて、体裁ばかりを取り繕おうとしていた自分のひねくれ方が嫌になった。


俺が呟き零した言葉が、足の裏に染み込むほどの間も空けずに、
「ごめんね。」
聞き慣れた君の声が雫の様にポツリと静かだった心の水面に波紋を広げ、それが妙に納得の行く応えだったかの様に受け止められたんだ。

引き寄せ合う磁石の様に各々の視線が引き付け合い結び合った。
そして二人は、歪む表情を堪えもせずに自然に抱き締め合っていた。

肩に脇に、鎖骨に胸板に、しっくりと収まる抱き慣れ親しんだ彼女の身体から、いつもの体温が伝わって来る。
この身体を何よりも大切にと慈しんで、
この人を他の誰よりも幸せにしたいと願って暮らして来たはずなのに。

耳元で繰り返される「ごめんね」と「ありがとう」に付け加えた互いの名前が、聞き慣れたいつもの響きではなく、弱々しく震え、抱き締めている腕の力が削がれていった。



嗅ぎ慣れたシャンプーの香り。
うなじに自然と収まる顎の定位置。
触れ合う素肌の耳と耳の感触。
背中の柔らかな曲線にぷにっと指が食い込んで、肋骨で彼女の呼吸を感じていた。


一緒に暮らしてきた日々は常に愛おしくて、その存在の嬉しさと有り難さを、なんとかして表現したくて、解って欲しくて、感じ取りたくて、いつもいつも力いっぱいに抱き締める事しか出来ていなかった。


肩に涙の温もりを感じながら、耳元で力なく繰り返される俺の名前とごめんねは、
その一回一回毎に気持ちを打ちのめし、
確実に俺の心をえぐり取っているのを感じていた。
この耐え難い痛みは、多分、
俺が生きている限り心のどこかで常に繰り返され続けるのだろう。


いつもと同じ、夕食後の寛ぎの時間帯。
テーブルの上には、たった今食べ終えた食器や調味料が並んで、
いつもの様に君の隣に座る位置を変えて並んでテレビを観たり、話をしたり。


ここを終わりの場としよう。


いつもの日常を過ごす中で、二人が離れなければならない現実を何処で迎えるべきなのかを話し合ったんだ。

このマンションのドアー口で後ろ姿を見送るよりも、駅の改札口でバイバイと手を振り合って見届けるよりも、
二人でイチャイチャしながら過ごしていた、この食卓のこの夕食後のこの時間を選んだんだ。


立ち上がったら「ごめんね。」を封印して、
「行ってきます。」に言葉を変えて。
「ありがとう。」を「気を付けてね。」
互いに小さく手を振り合って、
軽く唇を重ね送り出す。

お互いに、出会った時の始めて交わした時の言葉を覚えてはいなかったのだし、
付き合いを始める時の気持ちの受け渡しもあやふやだったし、二人で暮し始めた日にちさえも曖昧だったから、私達二人が「さようなら。」でわざわざ区切りを着けて別れる事はないよね。と、
「行ってきます。」と「気を付けてね。」を選んだんだ。

いつもの日常をいつもの様に過ごしていられた、その瞬間が何よりも幸せだったんだと、心の傷として残す為に、
互いが互いを赦さぬ様に戒める為に、



俺は、
この食べ終えた食卓の光景を忘れはしない。







なんちゃって。