toshimichanの日記

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エッセイってさ

皆さんはエッセイってのを書く場合に、いったい誰に向かってその言葉を綴っているのでしょうか?
ふと疑問に思ったんです。
私が最初に投稿サイトにアップするために書き始めた物は、完全に独り言でした。
誰かに宛てた文章ではなく、あくまでも自分史として、過去の自分がどう考えどんな事を経験して来たのかを書き残して置きたいと思ったので、備忘録的に自分に宛てた文章を書き始めたのです。

その切っ掛けはと言えば単純に、私の日常生活の中には、常に自分の考えや生活上のエピソードを話し聞かせてくれている家内が側にいて、その時々のあらゆる自分の立場、視点や考え方を織り込んで好き勝手に表現しながら喋り捲っているのに対して、その話しの内容に矛盾もあれば、その時々によっての考え方がコロコロと変わっている家内の影響があるのだと思います。


元々はと言えば、私の青春時代には、このような不特定多数に対して自分の意見を発信する場というのは、深夜放送のラジオが流行っていた時代で、かくゆう私もそんな中の一人だったのです。
いわゆる葉書職人的な、下らなくもつまらないエピソードを歪めて、なんとか面白可笑しくねじ曲げた表現を使ってラジオパーソナリティに如何に読み上げて貰えるか。
それはある種の勝負でもありました。

下手の横好きで、自分の書いたエピソードがラジオの電波に乗り、不特定多数のリスナーに届き、それに対しての反応反響があると言う面白さにはまっていた時代がありました。


自分の書いた物が人目に触れる?妙な高揚感に惹かれ書く事の面白さを知り始めた頃と同時期に彼女ができて、恋愛なる物にも本格的に魅かれ出したのです。

恋愛は始まってしまうと、色々と状況や事態が目まぐるしく変化してしまいますので、落ち着いて文章を書くなんて悠長な時間など作れやしませんでしたし、
何よりも、その本格的な恋愛を始めてしまった時期が大学へ進学するべきと、無謀な人生設計を変更した時期でもあったために、すっかりと(何かを書く)事からは遠ざかってしまいました。

それからと言うものは、「下手な人生休むに似たり。」の如く、女に現を抜かしぃ~の、仕事に追われぇ~のと、自分を発信する事から遠ざかっていました。


やがて時代の流れ的には、ワープロなどと言う、手書きではなく、キーボードで打ち込んだ文章を記録保存できる優れ物が登場して、それが個人として所有できるようになり、ボールペンやシャーペンから遠ざかる時代が訪れたのです。



その頃の彼女だった美紗絵は、仕事上で毎日使っているワープロなんかでプライベートな日記等は書きたくはないと言って、夜な夜なひたすら手書きに拘り大学ノートに日記を綴っていました。

その日記は、彼女と別れた後に俺の手元に残されています。

二人で暮らしていた生活の日々を彼女自身の感じたままの視点で書き綴った直筆の日記のその内容は、正に俺に宛てた手紙集でもありました。

俺に宛てた、彼女が綴った俺へのメッセージ。
それはどんな高尚な本よりも、感動を呼び興す小説なんかよりも、比べ物にならないくらいの痛く複雑な感情を俺に与える物でした。

声が聞こえ、姿が浮かび、表情が見えるのです。
心が動き、愛情が溢れ、喜びが伝わって来るのです。
そりゃそうです。
そこに綴られている出来事や事実は、この俺が主人公であり、自分自身が巻き起こしていた当事者なのですから。



エッセイ。
そこに綴る物語?出来事?メッセージ?は、不特定多数に向けた所で、多数の人目に触れる事はなく、かと言って、たった一人をターゲットとして書く物でもない。
俺に取っては、自分の中に向けた自分へのメッセージ、独り言に過ぎない戯言なのかも知れない。


なんか、無理な終わらせ方ですよね。
まっ、そんな奴です。